斎藤茂吉の歌集について、発行された時代背景とともに、作品や収録内容について解説しております。
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第1歌集『赤光』(しゃっこう)
本格的に作歌をはじめた頃の明治38年(23歳)から、実母いくと歌の師伊藤左千夫が死去した大正2年8月(31歳)に至る9年間の作品834首を逆年順に収載し、大正2年10月15日東雲堂書店よりアララギ叢書第2篇として発刊(初版)した。芥川龍之介・佐藤春夫など歌壇以外にも広く注目をあび高く評価され大正8年まで5版を重ねる。
大正10年11月1日には大幅な改訂削除が行われ、760首として配列を年代順に再編した改選版が出された。さらに大正14年8月、数カ所の語句・誤植訂正の後、改選『赤光』第3版が春陽堂より発刊され、著者の茂吉は、後記中に「これを以て『赤光』の定本としたい。」と記述している。また、昭和24年に千日書房より新版が発刊された。
歌集名『赤光』は、仏説阿弥陀経「黄色黄光赤色赤光白色白光」から採ったもので、挿画は木下杢太郎「蜜柑の収穫・仏頭」・平福百穂「通草のはな」の3点。
収載作品抄
- 白き華しろくかがやき赤き華赤き光を放ちゐるところ(地獄極楽図 明治39年)
- のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり(死にたまふ母 大正2年)
- ひた走るわが道暗ししんしんと怺へかねたるわが道くらし(悲報来 大正2年)
第2歌集『あらたま』
東京帝国大学医科大学助手・付属病院勤務の頃の大正2年9月(31歳)から、養父紀一の次女輝子と結婚し病院を継ぐことが運命づけられた大正3年を経、長崎医学専門学校に赴任した大正6年12月(35歳)までの作品746首が作歌年順に収められ、大正10年1月1日春陽堂よりアララギ叢書第10篇として発刊した。さらに、その数日後(1月5日)には再版刊行、大正14年までに誤植等を訂正し8版におよぶ発刊を重ねた。
歌集名『あらたま』は、茂吉が敬愛する一人森鴎外の文章中「次第に璞(あらたま)から玉が出来るやうに…」から採ったことが編集手記に記されてあり、茂吉自身もその中で「僕は自分の歌集が佳い内容を有つてゐることを其の名が何となし指示してゐるやうな気がして秘かに喜んでゐた。云々」と述べている。
挿画は平福百穂「七面鳥」、木下杢太郎「五月末」、正岡子規「藤娘その他」の3点。
収載作品抄
- あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり(一本道 大正2年)
- ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも(時雨 大正3年)
- 朝あけて船より鳴れる太笛のこだまはながし並よろふ山(長崎へ 大正6年)
第3歌集『つゆじも』
長崎に着き、長崎医学専門学校教授として着任した大正6年12月(35歳)から、同9年の流行性感冒のあとの喀血、転地療養、大正10年3月に長崎を去り、一度帰京後、長野(富士見)静養、同年10月東京を発って渡欧留学の途に就き、大正11年1月(39歳)にベルリンを経てウィーンに向かった時までの歌706首(後記中の歌9首を加える)が年代順に収められ、大石田移居時代の昭和21年8月30日岩波書店よりアララギ叢書第25篇として発刊した。歌稿が火災で焼失したことなどから作歌時期から四半世紀を経てからの刊行になったと推測されている。昭和26年4月5日発行の第3刷後記で2首、全集で16首が増補され、歌数は722首となった。
歌集名『つゆじも』は、万葉集の「露霜(ツユジモ)乃(ノ)消去(ケ ヌル)之如久(ガ ゴ トク)」など歌を引いて、「この一巻の内容が主として長崎晩期の心にかよふと思ひ、かく命名した」と後記中で茂吉自身が述べている。口絵にはピナテール(長崎で生涯をおくったフランス人)の肖像写真が載せられている。
収載作品抄
- うつり来しいへの畳のにほひさへ心がなしく起臥しにけり(漫吟 大正7年)
- この道は山峡ふかく入りゆけど吾はここにて歩みとどめつ(温泉嶽療養 大正9年)
- 長崎の昼しづかなる唐寺やおもひいづれば白きさるすべりのはな(帰京 大正10年)
第4歌集『遠遊』(えんゆう)
留学のため渡欧し、オーストリアのウィーン大学神経学研究所に入った大正11年1月(39歳)より、ウィーンを去りドイツ(ミュンヘン)に移る大正12年7月(41歳)までの歌623首が収められ、大石田移居時代の昭和22年8月30日、岩波書店よりアララギ叢書第123篇として発刊した。ウィーン滞在中の1年半は、ひたすら研究に精を出し三つの研究論文を完成させているが、寸暇を惜しんで文学、美術・芸術鑑賞などのため国内・周辺各国を訪れた折の旅の記録も含まれ、この歌集について「滞在中の小記念を残さうとして、簡単な日録の余白に歌を書きつけることにした。(中略)全く歌日記程度のものになつてしまつた。」と茂吉自身が後記中に述べている。
さらに、「長らく放置していたが、歌集『つゆじも』編集と一緒に昭和15年編集したことと、『遠遊』は杜甫の詩にもあってなつかしい語であったため、歌集名とした旨も記されている。口絵にはオーベルシュタイネル教授(神経学研究所の創始者)の肖像写真が載せられている。
収載作品抄
- 見わたしの畑に雪降りかぎりには黒くつづける常緑樹の森もり(維也納歌稿 其一 大正11年)
- ぎりぎりに精を出したる論文を眼下に見をりかさねしままに(維也納歌稿 其三 大正12年)
- 南方を恋ひておもへばイタリアのCampagnaの野に罌粟の花ちる(伊太利亜の旅 大正12年)
第5歌集『遍歴』(へんれき)
渡欧留学中の茂吉が、オーストリア(ウィーン大学)からドイツのミュンヘン国立精神病学研究所に移った大正12年7月(41歳)以降、留学を終えて、東京帰着(途中船上にて青山脳病院全焼の報を受ける)の大正14年1月(43歳)までの歌828首が収められ、昭和23年4月5日岩波書店よりアララギ叢書第124篇として発刊した。茂吉は後記中において、歌集『遠遊』同様、歌日記程度のものであると述べているとおり、フランス・イギリス・イタリアなど諸国を「遍歴」した様子が、歌とともに記されている。また、はじめは歌を厳選して『遠遊』『遍歴』を一巻とするつもりだったが、「粗末なものであるが、西洋の生活、西洋の風物を詠んで居るので、おのづからその特色が見えて、私自身のおもひ出なすことが出来る。」の理由から、すべてを収録し2巻発刊することに途中から方針を変更している。
昭和15年夏箱根の強羅で編集され、発刊に際しての整理は大石田移居時代の昭和22年に行われている。口絵には、ドイツで医学研究した折の恩師、シュピールマイエル教授の写真が載っている。
収載作品抄
- 初学者のごとき形にたちもどりニツスル染色法をはじめつ(ミユンヘン漫吟其一 大正12年)
- 大き河ドナウの遠きみなもとを尋めつつぞ来て谷のゆふぐれ(ミユンヘン漫吟其二 大正13年)
- ルウヴルはわれには無限の感ふかしボチツエリひとつに相対ひても(巴里雑歌其二 大正13年)
第6歌集『ともしび』
渡欧留学を終えて、神戸に帰着し上京途次の大正14年1月(43歳)から再建した病院の院長の職に就くなど多忙な生活を送っていた頃の昭和3年(46歳)までの歌907首(刊行時の検閲に配慮し削除されていた歌5首が加えられ全集では912首)が収めれ、昭和25年1月30日岩波書店よりアララギ叢書第141篇として発刊した。
その頃の茂吉は、帰国途次に焼失した病院再建、歌友島木赤彦没後の「アララギ」発行に尽力、養父紀一の死去など、苦難の日々を送りながら作歌意欲に燃え、茂吉自身「辛うじて作歌をつづけることが出来、(中略)飛躍は無かつたが、西洋で作つたもののやうな、日記の域から脱することが出来た。」と述べている。歌集名『ともしび』は、「艱難暗澹たる生に、辛うじて『ともしび』をとぼして歩くといふやうな暗指でもあつただらうか。」と後記中に記している。
収載作品抄
- 焼けあとにわれは立ちたり日は暮れていのりも絶えし空むなしさのはて(焼けあと 大正14年)
- うごきゐし夜のしら雲の無なくなりて高野の山に月てりわたる(高野山其一 大正14年)
- 寒水に幾千といふ鯉の子のひそむを見つつ心なごまむ(霜 昭和元年)
第7歌集『たかはら』
病院長として多忙を極めていた頃の昭和4年(47歳)から、昭和5年9月(48歳)までの2年間の歌454首が収められ、昭和25年6月30日岩波書店よりアララギ叢書第142篇として発刊した。この頃茂吉は文学全集短歌篇のための短歌史を執筆、新聞社の飛行機に初搭乗、文学論争をはじめ、長男茂太と出羽三山参拝、高野山上のアララギ歌会、近江番場蓮華寺に恩師佐原応和尚の病気見舞いなど、さまざまな行動をしているが、その様子は本歌集において表現されている。
歌集名『たかはら』は収載されている昭和五年の歌「高原(たかはら)に光のごとく鶯(うぐひす)のむらがり鳴くはたのしかりけり」の一首から採ったことを、茂吉自身後記中で述べている。口絵には高野山上の中村憲吉と茂吉の写真が載せられている。
収載作品抄
- 西北より発して今しがた銀座の上空を過ぎしはあはれあはれ看忙のためならず(虚空小吟其三 昭和4年)
- ふりさけて峠を見ればうつせみは低ひくきに拠りて山を越えにき(高野山 昭和5年)
- 松かぜのおと聞くときはいにしへの聖のごとくわれは寂しむ(近江番場八葉山蓮華寺小吟 昭和5年)
第8歌集『連山』(れんざん)
昭和5年10月から同年11月(48歳)に、当時の満洲鉄道株式会社に招かれて満洲各地と北京(北平)を巡り、朝鮮を経て帰国するまでの歌705首が収められ、昭和25年11月15日岩波書店よりアララギ叢書第145篇として発刊した。茂吉は45日におよぶ旅行詠について、歌集後記中において「この満洲巡遊の歌は、満洲の風物が私にはじめての経験なので、なかなか旨くはまゐらなかつた。それでもその時々にいそいで手帳に書きとどめたのを少しく推敲して整理したのであつた」と述べている。
さらに「一首としての此等の表現は、中華的でもあり、日本にない、大陸的なものだが、それが充分あらはれて居るか如何といふことに帰著するのである。」とし、歌集名『連山』の語のとおり、日本の連峰・山脈よりも大陸的な雰囲気を湛えている作品が主体となっている。
収載作品抄
- 一巌が一山をなすうへにして堂の口より今しがた人入りぬ(満洲遊行 千山其一 昭和5年)
- 見はるかす天あめの最中におのづから雲も起らずいやはてのくに(満洲遊行 オポ山 昭和5年)
- 峨々としてそびえし山のつらなりに小さき三角の山がこもれり(北平漫吟 北平途上 昭和5年)
第9歌集『石泉』(せきせん)
中国(満洲等)旅行後、転地療養、郷里の長兄・恩師の佐原㝫応和尚の死去など多事多難であった頃の昭和6年(49歳)から北海道旅行(三兄弟の再会)をした折の昭和7年(50歳)までの歌1,025首が収められ、昭和26年6月15日岩波書店よりアララギ叢書第148篇として発刊した。この歌集により、それ以前に刊行した歌集(『白桃』の作歌年は昭和8・9年)に繋がったことを、茂吉は「この歌集『石泉』につづくのは、歌集『白桃』であるから、はじめて私の歌集は連続することになるわけである。
ただ歌集『のぼり路』の後は、戦争となつたため、戦争の歌を棄てることとし、平和の歌を以て編集し、『小園』につづけるつもりである。」とする今後の歌集刊行についての考えも合わせて歌集後記中で示している。
収載作品抄
- ゆふぐれの薄明にも雪のまの土くろぐろし冴えかへりつつ(新年 昭和6年)
- 上山のまちに鍛冶のおとを聞きく大鋸をきたふるおととこそ聞け(上山低徊 昭和6年)
- うつせみのはらから三人みたりここに会ひて涙のいづるごとき話す(志文内 昭和7年)
第10歌集『白桃』(しろもも)
茂吉自身が「実生活の上に於て不思議に悲歎のつづいた年であつた。」と後記中で述べている時期、昭和8年(51歳)から昭和9年(52歳)までの歌1,017首(全集では拾遺として補った歌16首を加えて1,033首としている。)を収め、昭和17年2月25日岩波書店よりアララギ叢書第100篇として発刊した。親交した平福百穂と中村憲吉との死別、妻の私行に関する新聞記事が出たりするなど、相次ぐ精神的負傷が多かった頃であったが、歌論研究に没頭して『柿本人麿』(総論編)の刊行と蔵王山上歌碑の一首「陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳(そび)えたまふ蔵王(ざわう)の山(やま)の雲の中に立つ」など、代表的作品が多く作られた時期でもある。
『白桃』は歌集に収載されている歌「ただひとつ惜(を)しみて置きし白桃(しろもも)のゆたけきを吾(われ)は食(く)ひをはりけり」の一首に因んでつけられた名である。昭和14年夏に編集を終えたことが昭和16年11月吉日の後記中に付してある。
収載作品抄
- 春の雲かたよりゆきし昼つかたとほき真菰に雁しづまりぬ(残雁行 昭和8年)
- まどかにも照りくるものか歩みとどめて吾の見てゐる冬の夜の月(冬ふかむ 昭和9年)
- 一とせを鴨山考にこだはりて悲しきこともあはれ忘れき(歳晩近作 昭和9年)
第11歌集『暁紅』(ぎょうこう)
昭和10年(53歳)から昭和11年(54歳)までの歌、968首(初版の969首を、第2刷では重複する歌二首を削除し新たに一首を加えた)を収め、昭和15年6月30日岩波書店よりアララギ叢書(無番号)として発刊した。後記中に述べているとおり、「昭和八年昭和九年あたりの歌に比して、幾分変化の跡を見ることが出来るやうにおもふ。ひとつは抒情詩としての主観に少しく動きを認め得るのではないかと思ふ」と作者自らが或る新しい抒情の心持が現れて来たことを言っているとおり、「ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり」などの意図ある作品が見られる。
昭和14年の夏に編集を終え、その翌年1月に原稿を印刷所に渡し、3月にはすべてが終了した事が後記中に記されている。
収載作品抄
- わが体机に押しつくるごとくにしてみだれ心をしづめつつ居り(山房私歌 昭和10年)
- 雲さむき天の涯にはつかなる萌黄空ありそのなかの山(大平峠 昭和11年)
- あかつきの光空より来たらむと谿の暗きを吾は見おろす(白骨温泉 其一 昭和11年)
第12歌集『寒雲』(かんうん)
昭和12年(55歳)から昭和14年10月(57歳)昭和15年3月1日までの歌1,115首を、古今書院よりアララギ叢書(無番号)として発刊した。
この頃は『柿本人麿』全五巻におよぶ膨大な研究・執筆の大部分が完了し、第2歌集『あらたま』刊行から約20年の歳月を経て、発刊順では第3番目としてこの『寒雲』が出され、その後相次いで刊行順と内容(作歌年)が逆に『暁紅』『白桃』を発刊した。このことは、巻末記に、第3歌集の『つゆじも』発刊に際して手帳に書きとどめた未完成の歌が多く、それを整理するのに月日が経ってしまったことから、友人の助言により先ず新しい方の歌を纏めることとした旨が記されている。
また、昭和9年に建立を認めた唯一の歌碑「蔵王熊野岳山頂」を実弟・友人らと見に行ったのもこの時期(昭和14年)で、その様子は「歌碑行(いただきに寂しくたてる歌碑(かひ)見むと蔵王(ざ わう)の山(やま)を息(いき)あへぎのぼる)」として、この歌集に収めらている。
収載作品抄
- 人麿がつひのいのちををはりたる鴨山をしもここと定さだめむ(湯抱 昭和12年)
- 通草の実ふたつに割れてそのなかの乳色なすをわれは惜しめり(その折々 昭和13年)
- この山に寂しくたてるわが歌碑よ月あかき夜をわれはおもはむ(歌碑行 昭和14年)
第13歌集『のぼり路』(のぼりじ)
昭和14年10月(57歳)から昭和15年(58歳)までの歌734首が収められ、昭和18年11月20日岩波書店より、アララギ叢書第111篇として発刊した。昭和14年10月に鹿児島県から招かれて神代の遺跡を巡った「高千穂峰」の二百余首の作品がこの歌集の主要な歌であるが、茂吉が後記で「世界状勢に感激して作つたものも可なりまじつて居る」と述べているとおり、昭和15年の皇紀2600年記念の祝歌、戦争詠、日常詠も収載されている。
鹿児島県で詠んだ「高千穂峰」などの歌は、昭和15年6月改造社発行の歌文集『高千穂峰』にも収められている。茂吉の日記によれば、昭和16年8月及び17年7月に整理清書し、その翌年五月に印刷のための原稿を整え、7月10日に後記を執筆している。茂吉は昭和15年5月『柿本人麿』の業績により学士院賞を受賞した。
収載作品抄
- 高千穂の山のいただきに息づくや大きかも寒きかも天の高山(高千穂峰 高千穂山上 昭和14年)
- モナ・リザの唇もしづかなる暗黒にあらむか戦はきびしくなりて(随縁歌 昭和15年)
- 佳きけふのひと日大人うしたちあつまりて「柿本人麿」を褒たまひけり(受賞 昭和15年)
第14歌集『霜』(しも)
昭和16年(59歳)から昭和17年(60歳)まで作歌したものより戦争に関係のない歌を選び863首を収め、昭和26年12月20日岩波書店よりアララギ叢書第150篇として発刊した。
昭和16・17年の頃、日本は太平洋戦争に突入し、茂吉は時の要請に応えて多くの戦争の歌を作り、それらを含めた作品それぞれを年ごとにまとめ『いきほひ』『とどろき』の2冊を刊行するものとして編集したが、敗戦後の出版事情により戦争詠を削除し、『霜』の1冊にまとめたものである。昭和16年5月の瀧山登山の歌、翌年5月の還暦記念笹谷峠越の歌「はかなかるわれの希(ねが)ひの足(たれ)れるがに笹谷峠(ささやたうげ)のうへにゐたりき」など故郷山形で詠んだ作品も多数収められている。「昭和二十五年二月二十七日付」後記と「昭和二十六年春」とした追記が巻末に載る。
収載作品抄
- うつせみの胸戸ひらくるわがまへに蔵王は白く雁戸ははだら(羽前 昭和16年)
- かぎりなき稲は稔りていつしかも天のうるほふ頃としなりぬ(稔り 昭和17年)
- あまのはら冷ゆらむときにおのづから柘榴は割れてそのくれなゐよ(柘榴 昭和17年)
第15歌集『小園』(しょうえん)
昭和18年(61歳)から昭和21年1月(64歳)までの歌782首(『全集』では増補のために編集浄書してあった「上ノ山・金瓶雑歌」の61首を加え843首とした)を収め、昭和24年4月20日岩波書店よりアララギ叢書第137篇として発刊した。
この歌集も歌集後記の冒頭に「平和のものを選び、それに山形県金瓶村疎開中の大部分の歌を加へて一巻としたものである。はじめは、金瓶在住の歌のみを以て一巻とするつもりであつたが、それでは歌数が少し足りぬので、戦争中の歌を加へることにしたのであつた。(中略)本集には大石田で作つた歌をも共に入れるつもりでゐたが、頁数が余り増加するので、大石田の歌は別に一冊とし、『白き山』と題して本集につづけることにした。」と述べているとおり、はじめは『くろがね』と命名してあった歌集稿の中から、戦争詠が省略され、昭和18・19年の箱根強羅山荘生活と、昭和二十年郷里金瓶に疎開し終戦を迎え、その翌年大石田町に移居するまでの作品から成っている。
歌集の名『小園』は金瓶で詠んだ「小園(せうゑん)のをだまきのはな野(の)の上(うへ)の白頭(おきな)翁(ぐさ)のはな共ににほひて」に歌に縁ったものである。
なお、昭和20年7月に、戦争にかかわる歌220余首を集め、ガリ版刷の決戦歌集『万軍(ばんぐん)』も発刊(昭和63年に活版刷で再版)されている。口絵には「蔵王山と金瓶村」と題する写真が載せられている。
収載作品抄
- 鈍痛のごとき内在を感じたるけふの日頃をいかに遺らはむ(強羅漫吟 昭和19年)
- くやしまむ言も絶えたり炉のなかに炎のあそぶ冬のゆふぐれ(金瓶村小吟 昭和20年)
- 沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ(岡の上 昭和20年)
第16歌集『白き山』(しろきやま)
郷里金瓶から大石田に移居した昭和21年(64歳)から、昭和22年 (65歳)暮に帰京するまでの大石田滞在期間の歌824首(『全集』では増補のため編集清書してあった「紅色の靄」23首と、「酒田」補遺3首を加え850首となる)を収め、昭和24年8月20日岩波書店よりアララギ叢書第138篇として発刊した。
作歌については、「従来の手法どほりのものもあり、いくらか工夫、変化を試みたものもある。出来のわるいものもあり幾分出来のいいのもある」と自評しているが、「最上川逆白波(さかしらなみ)のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」など、この歌集の特徴とされる病臥後の新たな作歌意欲、積極的工夫・変化の努力と、ひたむきな最上川詠が各処に見られ、そのため茂吉の代表作とされる歌も多い。茂吉自身の日記によれば、昭和23年7月から8月にかけて整理清書されたもので、歌集の名『白き山』は「別にたいした意味はない。大石田を中心とする山々に雪つもり、白くていかにも美しいからである。」と後記中で述べている。口絵には最上川と茂吉の写真が載せられている。
収載作品抄
- 蛍火をひとつ見いでて目守しがいざ帰りなむ老の臥処に(蛍火 昭和21年)
- 最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片(虹 昭和21年)
- 最上川の流れのうへに浮びゆけ行方なきわれのこころの貧困(ひとり歌へる 昭和22年)
第17歌集『つきかげ』
東京帰住後の昭和23年(66歳)から最後の作品となる昭和27年(70歳)までの歌974首(再刊全集刊行時には増補し1,008首となる)を収め、茂吉没後の昭和29年2月25日、岩波書店よりアララギ叢書第155篇、斎藤茂吉最後の歌集(遺歌集)として発刊した。茂吉門下で全集編集委員の山口茂吉、柴生田稔、佐藤佐太郎が編集を担当し、巻末に土屋文明と山口茂吉の後記が付されている。
後記中で文明は歌集名について「先生自ら、歌集の題として善い名であると、佐藤佐太郎君に告げられたことがあるので、此の部分の作品集に名づけられる心持であつたか否かは明かでないが、編集者等が、取って此の集に題することにしたのである。」と述べ、山口茂吉は、茂吉が昭和23年以降昭和25年の「晩春」までを自ら編集浄書していたことを記している。
茂吉は昭和24年頃から衰弱が著しかったものの作歌を止めなかったが、没年の昭和28年の作歌を欠くのは、すでに健康全く衰えていたため制作が無かった。口絵には昭和25年5月撮影の茂吉肖像写真が載っている。
収載作品抄
- ひと老いて何のいのりぞ鰻すらあぶら濃過ぐと言はむとぞする(鰻すら 昭和23年)
- 茫々としたるこころの中にゐてゆくへも知らぬ遠のこがらし(冬の魚 昭和25年)
- いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるらしも(無題 昭和27年)※『つきかげ』最後の歌